「先輩! この前送った新商品のダイレクトメールで反応があった人の一覧が販売促進事業部から送られてきたんですけど、そこに名前と通し番号の情報しかないから、住所とか年齢とかのデータをマザーリストからつけて欲しいって依頼があったんですけど、どうしたらいいですか?」
「…………………………」
「先輩? せんぱーい?」
うずたかく積まれた本や書類のせいで、対面に座る先輩の姿が見えない。そんなに机の上に本があってもしかたないのだから、いらないものは処分したり、部署の本棚に片付ければいいと思うが、いくら注意したところで先輩は聞く耳を持たない。
配属されてしばらく経ったときに見かねて私が片付けたら、感謝の言葉を述べるどころか「どこに何があるか、わからなくなった」と言って不貞腐れていたので、それ以来私は先輩の机をどうこうしようとという気は無くなってしまったのだった。
おしまい。
「ってわけににもいかない…………か」
(はぁー、私なんでこんな人のこと好きなんだろ…………)
自分の異性の好みは、決してこんなにだらしない人じゃなかったと思うが、いよいよ趣味嗜好が変態的な方向に向いてしまったのではないかと悩む。
椅子から腰をあげて背伸びをしても、紙の山のさきは半分ほどしか見えず、意中の相手は視界に入りもしない。
諦めて、ぐっるとまわり込むと、私が話しかけていた相手は就業時間中にも関わらず、机に突っ伏して気持ちよさそうに寝ている。しかもイアホンまでして外部の音をシャットアウトしているあたり、『俺は寝るんだ』という確固たる意志を撒き散らしている。
仕事をなんだと思っているのだろうか。
――――――カシャッ
とりあえず、幸せそうに眠る寝顔をスマホで撮影してやった。
普段、ぶっきらぼうな態度しかとられないので、このくらいは許されるだろう。盗撮フォルダ…………もとい、私の心の安らぎフォルダもずいぶん充実してきた。
「先輩、先輩! 起きてください。起きてくださいよ!」
「……………………」
イヤホンをしているので、呼びかけなど意味はないのだが、呼びかけながら肩を揺らすもまったく起きる気配がない。
「よーしっ」
私は腕まくりをして気合を入れると、寝ている先輩の両方の脇腹めがけて、人差し指を突き立てた。
「zxcvbnm,.qwerty」
やられた本人が奇声を上げで勢いよく立ち上がった拍子に『ガタンッ』という大きな音を立てて椅子が倒れる。
以前は倒れる椅子にぶつかって私も痛い目にあうこともしばしばあったが、数えきれない経験から慣れてしまったので、いつもの通りひょいと避けて、目覚めた主に再び声をかけた。
「おはよーございます! みんなが元気に働いている時に寝るのは気持ちよかったですよね」
「……………………|紗希《さき》、その起こし方はやめろってあれほど…………」
「寝てる方が悪いんですよ。反論は認めませーん」
「ったく、配属したての頃は『先輩』『先輩』って可愛かったのに、なんでこんな風に育ったんだか…………」
「先輩のおかげですし、私はいまでも『せんぱい』『センパイ』『先輩』って言ってますよー。あと、昔も今も私はカワイイので、大きなお世話ですぅー」
「ふつう自分で自分のこと可愛いいって言うか? ったくよー」
先輩は倒れた椅子をめんどくさそうに戻すと、ドカっと座って改めて私の方を振り向く。
両方の脇腹に指を突き立てられるという最悪な目覚め方で強制的に完全覚醒にシフトチェンジしたので、流石に二度寝をする気にはならならなかったみたいだった。まぁ、機嫌が悪いと私を無視して外出しちゃうこともあるから、今日はマシな日みたいだ。助かった。
「で、何の用だ?」
「一度寝ている先輩に説明したんですけど、もう一回言いますね。この前、会社で保有してる全国のお客様とお客様見込み先が格納されてるマザーリストから、大量にダイレクトメールを郵送したじゃないですか。その反応が続々と全国の各店舗に届いているみたいなんです。で、販売促進事業部が全国の店舗からの報告をまとめたらしんですけど、そのリスト、反応があった人の名前と、マザーリストに登録するときに発番した重複がない番号の情報しか無いらしいんですよ。流石にそんなデータじゃ使い難いので、マザーリストのデータベースに入っている年齢や住所、性別、家族構成とかのデータをくっつけて欲しいんですって。どうしましょ」
「あーそれな。うんなん、重複のないユニークキーの番号情報があるんだったら、マザーリストからそのキーを手かがりにして、関数で引っ張ってきたら良いじゃん。表計算ソフトレベルで十分できるだろ? いちいち俺にふるなよ」
寝ている先輩に説明した内容よりも遥かにリッチに説明してあげたのに、先輩はめんどくさいそうにそう答えると、興味を失ったのか、また寝そうな雰囲気を醸し出している。
「先輩はおバカさんですね。マザーリスト何件あると思ってるんですか? 私に貸与されてるオンボロノートパソコンじゃぁ、マザーリストを表計算ソフトで開くことすら無理なんですけどー」
「あーくそ、そっか。そーだよな。てか、会社も大規模データ弄る部署の人間にくらい、ちゃんとしたパソコン貸与しろってんだよな。ガッツリメモリ積んだワークステーションがいいわ。部署に一台じゃ全然足りないっての! てかおい紗希、さっき俺のことバカって言ったか? 誰がバカじゃ誰が!」
「え、『先輩』ってちゃんと指定して言ったじゃないですか。業務時間中に悪びれもなく寝てる人にはおバカさんって言っていいって小学校で習ったし、お母さんもおばあちゃんも同じように言っていたので」
「お前が学んだ地域と家族が心配だよ………………あと、お前の家の男性陣の尊厳もな」
このぬるま湯のような応酬をずっと続けていたいと思うが、いい加減、他部署からの視線がツラくなってきたので終わりにする。
「だから、統計分析ソフトでの処理方法教えてくださいよ! 先輩暇なんだから」
「何で俺が…………。基本的な使い方は教えたんだから、あとはグーグル先生にでも聞きながら自分でやれよ」
「あーそうですか、そうですか。だったら、私のスマホに保存してある先輩フォルダから、厳選した先輩の昼寝写真とサボり写真を人事部に送っておきますね。ちゃんと日付と時間も入っているので完璧です」
「お前…………、世の中にはやって良いことと悪いことがあるって知らんのか…………これ以上査定下がったら、やばいんだけど…………」
「いつか私の方が上司になったら、たっぷりとコキ使ってあげますね!」
「サイアクだ………………」
先輩が部下になるのも案外悪くないかもしれない。その際は、机の位置とか仕事の割り振りとか権限をフル行使して、ずっと一緒にいられるようにしてやるんだ!
「教える気になりました?」
「はいはい、わかりましたよ! さっさとやるぞ!」
「よろしい。それでいーんです」
予定通り先輩からの指導の時間を勝ち取った私は、足取り軽やかに部署に一台ある高性能パソコンの席に向かう。先輩は納得いかない顔をしながら渋々ついてくるけど、そんな困り顔も…………いい。
「じゃー、統計分析ソフト立ち上げで、この前教えたファイルの読み込みまで済ませて。マザーリストと、販促部から送られてきたファイルの二つな」
「はいはーい」
私は統計分析ソフトを立ち上げると、まず初めに色々な関数が格納されているパッケージをライブラリから読み込み、共有ネットワークから二つのファイルを統計分析ソフトに読み込ませるプログラムを書いて実行する。
「先輩! できました!」
「おー。文字化けとか、二つのファイルを結合させるためのキー情報が落ちたりしてないか確認した?」
「そうでしたそうでした。ちょっと待ってくだい…………………………。大丈夫です」
「OK。そうしたら、今回は販促部から送られて来た人のデータに住所とか年齢とかをくっつけたいってことだったと思うけど、結局はマザーリストにある情報を、販促部からもらったファイルに格納されている人の情報で絞り込めばいい。ってだけだから。いくつかやり方あるけど、今回は”dplyr::filter”関数使ってやるから、ちょっとキーボード貸してみ」
「はい…………」
先輩は、少し前傾姿勢になって器用にキーボードでコードを打ち込んでいく。
キーボードが私の近くに置いてあるから、手が今にも触れそうな距離にあるし、顔もありえないくらい近い位置にある。
いつも不真面目で適当な顔をしている先輩だけど、実は専門的な知識も豊富で、いくつも論文を書いたりしているので本当はとても優秀だし、今みたいに私のことなどには目もくれず、真剣な表情で作業をしている顔は、私のギャップ萌え好きをがっしりと掴んでくる。もう、キュンキュンだ。
隣で私がどんな気持ちでいるか先輩に伝わっていないのが、少しもどかしくて寂しい気もするけど、本日のメインイベントなので存分に堪能する。
「あー、できたよ。コレ実行してみ! ……………………紗希?」
「……あ、はい! えっと、あ、コード実行か、ちょっと待ってくださいねっと」
完全に飛んでいたので、意識を慌てて戻し、先輩が作成したコードを実行をすると、出来立てほやほやのプログラムが順番に実行される。エラーが起きて止まる様子もなく、一分もかからずに依頼されたデータの抽出がうまく完了した。
「多分あってると思うけど、あとで件数に間違いながないかと、サンプルチェクしろよー。んで、今書いたコードの説明な。ここで、販促部のデータにあるキーを一旦こっちに格納して、んで、このコードでその格納した条件でマザーリストからデータ抽出してるって感じ。結構応用がきくから使えるようになれよー」
「おー。なんだかまた一つ頭が良くなった気がします」
「調子のんな! お前なんかまだまだだよ」
「ですね。でも、まだまだってことは、まだまだ沢山先輩が教えてくれるってことですよね。先輩は幸せ者ですね。こんなにカワイイ後輩にはじめてのことを色々教えることができるんだから」
「金払えよ!」
「それは会社が払ってるからイヤでーす。でも、お礼に私のことは色々教えてあげますよ!」
「何だよそれ」
「でもその代わりに、私にも先輩のこと色々教えてくださいね」
「こっちのGiveが多くねぇかな? それだと」
「先輩の頭の計算機は壊れちゃってるんですんね。私の情報と先輩の情報が同じなわけないじゃないですか。私の情報はそれはもうエベレストのように価値が高いんです」
「標高の話をしているのか、エベレストという唯一無二の環境価値の高さの話をしているのか全然わかんねーな。っと、それじゃーあとはよろしくなー。俺は仕事に戻るから」
「寝ちゃダメですよ?」
「寝ねーわ。おかげさまで、目、醒めたし。バキバキよ」
そう言うと、先輩は少しも名残惜しそうなそぶりを見せずに自席へ戻って行く。
(あー終わっちゃった…………次に話しかけられるタイミングが早く来ればいい)
(先輩。私の好みはですねー。ぶっきらぼうだけど、最後はちゃんと色々教えてくれて、私に向き合ってくれて。そして一緒に楽しく話ができる人が好きなんですよー)
目の前で役目を終えた、普段とてもだらしない人が書くコードは、本人とは対照的に無駄がなく綺麗で、意図した結果を正確に返してくれる。
プログラムが少し妬ましいと感じてしまているのは、やっぱり私の趣味嗜好が変態方面にシフトしている証拠だろうか。
「んなわけないか」
抽出した情報をファイルに書き出して、共有ネットワークに保存する。
「バイバイ! またね!」
私はそう告げると、統計分析ソフトを閉じて自席に向かう。
目の端で先輩が大きなあくびをしているが見えたが、見なかったことにした。
寝たら………………わかってるよね。
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